2017年 03月 19日
牯嶺街少年殺人事件
古嶺街〈クーリンチェ〉少年殺人事件〈4Kレストア・デジタルリマスター版〉 (1991) 【監督】エドワード・ヤン 【出演】チャン・チェン / リサ・ヤン / ワン・チーザン / クー・ユールン / タン・チーガン / ジョウ・ホェイクオ / リン・ホンミン / チャン・ホンユー / ワン・ゾンチェン / タン・シャオツイ / ヤン・シュンチン / ニー・シュウジュン / ワン・ウェイミン / チャン・クオチュー / エレイン・ジン / ワン・ジュエン / チャン・ハン / チアン・ショウチョン / ライ・ファンユン / シュー・ミン / シュー・ミンヤン |
エドワード・ヤン監督の映画を初めて観たのは1987年台北に住んでいた時だった。
その年の金馬奨作品賞を受賞し話題になった『恐怖分子』。
衝撃だった。
日常に潜む闇、都会の闇を見事に描いていた。
その時私の記憶にエドワード・ヤン=楊徳昌監督の名前がしっかり刻まれたのであるが、
次の作品『クーリンチェ少年殺人事件』が世に出るまで5年の月日が流れ、当時の私は台湾映画のチェックもすっかり忘れ、日本での公開を見逃してしまった。
後年、ビデオ版を探しあて、家で鑑賞し、またもや衝撃を受けたのであるが、小さなテレビでは画面も暗く、劇場で観なかったことを後悔したものだった。
そんなわけで私にとっては今回の公開は、昔憧れ続けていた先輩に20年ちょっとぶりに会って話ができたようなそんな感覚だ。
先輩は昔と変わらず素晴らしかった。
ルックスは昔よりもずっと洗練されたようだ(デジタル化で画面はより鮮明になった)。
光と闇との対比によって象徴される世界は1960年代の台湾の時代背景をそのまま映し出す。
自分で懐中電灯を持って照らし続けなければ自分のいる場所さえ見失ってしまう。
もちろんこの時代の台湾の混沌と閉塞感は大きなテーマであるが、
思春期特有の危うさや焦燥感、行き場のない自意識など、少年の普遍的な内面の葛藤が描かれている。
一回目に観た時には私は小四と同様に小明の言葉に動揺し、ショックを受けた。
今回は最初から小明がどんな境遇で、どんな行動に出ているのかを知っていたので、初回の時ほどの衝撃はなかったが、
236分、ただただスクリーンの美しい映像に酔いしれた。
それはまるで一枚一枚切り取られれた絵画のようで、その構図の完璧さは驚くばかりである。
私には外省人(1949年の中華人民共和国成立前後に共産党との内戦に敗れた国民党とともに大陸から台湾に渡った人々とその子孫)、
本省人(台湾に住む漢族のうち、戦前までに移住してきた人の子孫)の典型ともいうような友人がそれぞれいた。
本省人の友人が茶屋という家業を継ぐため奮闘していたのに比べ、
外省人の友人はいつかは起業して大儲けをし、海外に出る、と考えていた。
彼は台湾で生まれ育っているのであるが、ここは自分の終の棲家とは考えていない風であった。
本省人の友人とはよく大勢で夜の屋台に繰り出し、カラオケに行けば日本の演歌を歌ったものだ。
一方の外省人の友人は洋楽を愛し、ディスコで遊び、シャレ男をきどっていた。
どちらの友人にもお姉さんがいたが、本省人の友人の姉は家業の茶荘を手伝っていて、
私がお茶を買いに行くととても良くしてくれた。
外省人の友人の姉はアメリカに渡り、そこで結婚しているということだった。
もちろん私が見た台湾の人々は限られているし、それで全てを判断できるとは思わないが、
その友人二人の環境はその時代の典型を表していたと思う。
80年代はだいぶ民主化も進み、生活も豊かになっていた。
本省人の友人は台湾の未来を考えていたし、台湾での生活を彼なりに楽しもうとしていた。
しかし、外省人の友人は自分の才能を持て余し、満たされない何かを絶えず感じていたような気がする。
『クーリンチェ少年殺人事件』の舞台である60年代前後は大陸から移住してきた人たちにとって、どれだけ先が見えず不安で閉塞感があっただろう、と思う。
特にこの事件の被害者となる小明は病弱な母を抱え、強いものにしなだれかかりながらも、自尊心だけは持ち続けようともがいていたに違いない。
今でこそ明るくて美味しくてフレンドリーで海外旅行先として大人気の台湾ではあるが、
複雑な近現代史を経ており、この先もまだ不透明な未来があることを
私たちは隣国として知っておくことも大切だと思う。
それにしてもチャン・チェンは素晴らしい俳優に成長したものだ。
このデビュー作は実父と実兄との共演もあり、ファンは必見である。